2010年9月26日日曜日

立ち位置

私の投稿ペースは早い。1日1回でいいのにねー
けどまぁ、何回も投稿して悪いってことはないだろう。

人は考えて、そして行動しなければ、成長しないという。
けど今の私の行動範囲は狭い。
広げればいい、という意見もあるけれど、親を不安にさせてまで、と思う。きっと時間をかけて信頼を取り戻せば、安心して外に出してくれるって信じてる。

外に出れない分、ネットの中でもがくんだ。
ここに吐き出すことを、なんとか行動の代わりにしたいんだ。


あ、リプトンのグレープティー飲み終わった。


昨日ふと思ったこと。

道徳ってなんだろう、って考えていた。
だって世界の善悪は不確かなのに、時代によって移り変わるのに、なんでみんな迷わないんだろう。

ふと思った。
それは決まっているのではなくて、決めるものなんじゃないかって。

そこにあるのではなく、必要だから決めるんじゃないかって。

言葉の区分は、人が世界を認識するために作ったものだ、という話がある。
たとえばうちの犬と、隣の犬は、全く別の固体なのに、人はそこに共通点を見出して、「犬」という分野にカテゴライズする。
さらに、より一層似ている犬を比べて、「両方柴犬だ」という。
厳格にいえば全部別々のものである。微妙に模様が違ったりする。
けれど、1つ1つを別の固体として扱うと、人間の脳には処理しきれないから、犬というカテゴリーに入れることによって、頭の中をうまく使っているんだ。

そんな感じで。

善悪は時代によって移り変わるけど、
今の私たちが、ありたい自分であるために、立ちたい場所に立つために、
善悪は決めなきゃいけないんじゃないかって 思った。

それは立ち位置を決めるということ。
私はここに立ちます。私はここに所属します。
だからそちら側には立てません。そちら側を悪と見なします。

立ち位置を決めることで、
必然的に、考え方の異なる立ち位置というのが生まれて、
それを敵と見なしたり、悪と断罪する必要性が、
生まれることが多々あるんじゃないか。

もちろん悪と断罪する必要のない場合もあるのかも。
けどそこまで、いま思考が及ばない。

よくわからないけど、
人が弱いからかなぁ
たぶん世界は、厳密な意味では1つになれなくて
立ち位置、考え方にも区分が必要なんじゃないかなぁ



少し前に母がバレーボールを見ながら言っていた。

「みんな平等じゃ駄目なんだ。みんなでやるんじゃないんだ。
うまい子は試合に出して、下手な子は出さないのが平等なんだ。

楽しければいいんじゃない。勝たなきゃ駄目なんだ。
勝利を目指して必死にならなきゃ。勝たなきゃ楽しくないんだ。」



よくわからないけど、似たものを感じたんだ。
人は自分の立ち位置を決めるべきだし、そうすれば自然と敵や悪も生まれて、
けどそうじゃなきゃ駄目なんじゃないかって。

そうでなきゃ人間はうまくいかないんじゃないかって、思った。

ごめん、あまりまとまってないね。

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